カルチャー ヒストリー

開拓の村が保存する「厚別」

9月17日の日曜日、「北海道開拓の村」にある旧信濃神社で秋祭りの神事が行われました。新型コロナのために中止が続き、4年ぶりの開催でした。境内には開拓の村の関係者や、信濃神社の地元のみなさん、観光客などおよそ100人が詰めかけました。

旧信濃神社は、JR厚別駅近くにある信濃神社の前の社殿です。その名が示すとおり、1883(明治16)年から厚別地区に最初に開拓に入った長野県出身者らが中心となって1897(明治30)年に建てられました。「信州開墾地」と呼ばれたエリアに厚別駅や信濃小学校、駐在所、厚別郵便局などが次々と作られ、ようやく市街地が形成された頃のことでした。神社は地域の人たちの心の拠り所であり、北海道を永住の地とすることへの覚悟でした。この旧社殿は開拓の村がオープンする5年前の1978(昭和53)年、下の写真のようにトラックの荷台に載せて移されました。「実家(現信濃神社)」との縁はその後もずっと続いているので、お嫁に出したような感じでしょうか。私はこの写真に「嫁入り道中」を感じてしまうのです。現在の社殿は同じ年に新たに建てられました。

旧信濃神社の移送(提供:北海道博物館)

文化財となった旧信濃神社では、今も毎年秋にはお祭りが行われています。信濃神社のお祭りは、4つの町内会が持ち回りで当番区として仕切ることになっていて、ことしは厚別西厚信会(あつべつにしこうしんかい)が当番区でした。このため、旧信濃神社の秋祭りも厚別西厚信会が当番区として協力しました。

午前11時から行われた神事では、水野翔互(しょうご)宮司(40)が祝詞を上げた後、華やかな巫女舞が披露され、開拓の村の関係者などが玉串を捧げました。この後、厚別西本陣寿太鼓の子どもたちが神輿を引いて村内を練り歩きました。沿道には子どもたちの打ち鳴らす太鼓や鉦の音が響き渡たり、観光客などが盛んにシャッターを切っていました。旧信濃神社は単に建物として保存されているだけでなく、そこで行われていた催しも含めて、生きた形で保存されているんですね。開拓の村の馬車が観光客を乗せて走っているのと同じように、「動態保存」されているわけです。

この神社にはもうひとつ「動態保存」されているものがあります。社殿の前に置かれているさい銭箱です。これも社殿とともに移設されました。この日も、訪れた人たちがさい銭を入れて、手を合わせていました。

実はこのさい銭箱の保存の仕方をめぐっては、開拓の村がオープンした当初、「えっ、ほんとなの?」と言いたくなるような議論があったんです。開拓の村は1983(昭和58)年4月にオープンしました。大勢の市民や観光客が詰めかけ、当時の北海道新聞によると、神社のさい銭箱には約1年間で70万円近くもの浄財が寄せられました。開拓の村を管理していた道野幌森林公園管理事務所では、これを神社の維持管理費などに充てようとしましたが、道が「さい銭として入れられた現金を使うのは宗教的色彩があるため、公的施設としてはなじまない」として「待った」をかけたのです。このため、管理事務所では、さい銭全額を拾得物として警察署に届け、さい銭箱にはお金を入れられないようにプラスチックのフタをしました。しかし、こうした対応にはあまりにお役所的発想だという批判が相次ぎ、道議会でも問題になりました。このため道も方針を改めました。さい銭箱のフタは取り外され、さい銭は建物を保存するための基金に繰り入れて活用されることになりました。開拓の村によりますと、さい銭箱には今も年間数万円のお金が寄せられていて、修繕などに役立てられているということです。

この旧信濃神社は、開拓の村の、農村を再現した「農村群」の一画にあります。農村群には全部で14件の建物が展示されていますが、このうち旧神社も含めて4件、正確に言うと4.5件は厚別区にあった建物なんです。

次は、旧信濃神社とも非常に関係の深い人物の建物を見てみましょう。旧神社の参道の入口付近にある「旧河西家(かわにし)米倉」です。広さは40㎡あります。今も、開拓の村で作られたジャガイモなどを一時的にストックするのに使われています。秋のお祭りの日には、そのジャガイモが1袋100円で販売されていました。

旧河西家米倉  右は収穫したジャガイモと秋祭りでの販売
河西由造(提供:厚別区民歴史文化の会)と頌徳碑(信濃神社境内)

これは1986(昭和61)年に、実物を忠実に再現して建てられました。元々の米倉を建てた河西由造(よしぞう)は、最初に開拓に入った長野県出身者のグループのリーダーです。写真を見ると、ダンディーな人ですが、「故河西由造小伝」によると、自らに厳しく、品行方正で、服装や容姿も端正で、用意周到な人だったということです。旧信濃神社を建てた際には、自分の土地を提供し、初代の神社総代を務めています。現信濃神社の境内には河西の「頌徳碑」が立っていて、「信濃小学校及信濃神社ノ建築或ハ厚別驛設置ノ如キ公共事業ノ爲私財ヲ擲テ惜マス」とその遺徳を称えています。河西が米倉を建てたのは、神社と同じ明治30年ごろです。開拓に入って14年ほど、水田も広がり、収穫量も米倉が必要なまでに増えたのでしょう。神社と米倉は河西にとって、一つの到達点だったかもしれません。

旧樋口家住宅 右は広間

さて、次は「旧樋口家住宅」です。こちらは、1893(明治26)年に富山県から小野幌(今の厚別東)に開拓に入った樋口善右衛門(ひぐち・ぜんえもん)がその4年後の1897(明治30)年に建てたものです。明治時代の農家建築の代表例として保存されています。居間には善右衛門と妻・シゲの人形が置かれていて、この住宅を建てた頃のことを懐かしそうに語り合う場面が再現されています。学芸員が当時の樋口家の状況を丹念に調べて、夫婦の会話を想像してセリフを書き、劇団員に富山弁で演じてもらった音声が流れます。

善右衛門:北海道へ来た当座の掘立小屋のことを考えると夢みたいや。(中略)

シゲ:原木を選んで伐り出してから2年、棟梁の西田はん頼んで家建てるのにまた2年。この家が建った時のこと、じいやん、覚えてなはるか。

善右衛門:なんで忘れるぞえ。ようおぼえとるっちゃ。

シゲ:あの時ゃうれしいてうれしいて、涙がなんぼでも出て来よってからに、止まれせんじゃたあ(涙ぐむ)

ワクノウチ造り

「棟梁の西田はん」というのは、この家が建てられたころに富山県から移住してきた西田栄次郎のことです。この家は西田によって富山の様式で建てられました。人形が座っている15畳の広間の天井を見上げると、上の写真のように、太い梁が井桁状に組まれているのが見えます。これは富山県などて江戸時代から引き継がれてきた「ワクノウチ造り」と呼ばれる構造です。開拓の村にある新潟県出身者の家はやはり新潟の様式で建てられています。移住一世の人たちにとって、家はやはり故郷と同じ造りでなければならなかったのでしょうね。

樋口善右衛門(左)と重蔵(「小野幌開基百年」より)

善右衛門から家を受け継いだのは息子の重蔵ですが、重蔵も開拓の村のすぐそばに厚別の歴史を語るうえで欠かせない土木遺産を残しています。野幌森林公園にある「瑞穂の池」です。

瑞穂の池と記念碑

今は市民の憩いの場となっていますが、元々は小野幌地区(厚別東)の水田の深刻な水不足を解消するために作られたため池でした。重蔵が中心となって土功組合(国からの補助を受けてかんがい事業などを行う公共団体)を作り、1928(昭和3)年に完成させました。池のほとりには記念碑が建てられています。碑文には「この池は小野幌の長老樋口重蔵さんとその同志が心と血を充たしあふれたぎらせている池である」と記されています。重蔵は白石村議会議員連続9期務めたほか、1917(大正6)年には厚別酒造合名会社を設立し、「丸厚正宗」などの銘柄の酒を製造・販売しました(戦時下の物資統制のため廃業)。河西由造の「頌徳碑」にも建設委員の一人として名を連ねています。旧樋口家住宅も、地域に大きな貢献をした一家の家なんです。

4つ目は旧山本消防組番屋と火の見櫓です。番屋は1925(大正15)年ごろに建てられ、消防資機材の格納庫、防災活動の拠点として半世紀にわたって使われました。農村景観には欠かせない建物であることから、1986(昭和61)年に、一部残っていた番屋や元消防組員からの聞き取り、古写真などをもとに開拓の村に再現されました。番屋の中には大正・昭和初期に使われていた手押し消防ポンプなども展示されています。「山本開基百年記念誌」によると、夏は手押しポンプを大八車に、冬は馬そりに載せて出動したということです。町内会では各戸から消防費を徴収し、消防組の活動を支えていたということです。山本消防組は、厚別地区に消防の出張所ができたことなどから、1975(昭和50)年に解散しました。

最後にもう一つ、厚別ゆかりのものをご紹介します。先に厚別にあった建物は「4.5件」と申し上げたうちの「0.5」です。それは旧小川家酪農畜舎の横に立つサイロです。畜舎そのものは清田区里塚にあったものですが、札幌軟石のサイロは元々は厚別区内の農家にあったものを移設したものでした。かつては厚別でも酪農が盛んだったことを今に伝えてくれています。

開拓の村は北海道の開拓の歴史を伝えていこうと作られた野外博物館ですが、こうして見てみると、厚別の開拓史のエッセンスも保存してくれていることに、改めて気づかされます。展示されている建物は歴史のタイムカプセルであり、それを開ければ、地域のかつての営みが、物語が蘇ります。厚別区は高度経済成長期に新たに開発されたニュータウンのイメージが強い地域です。でも、ニュータウンになる前はどんな風景が広がっていたんだろうと知りたくなったら、開拓の村に散歩に出かけてみるのがいいかもしれません。何と言っても、こんなに近くにあるのですから。

【参考文献】

〇北海道開拓の村整備事業のあゆみ 北海道開拓記念館 1992(平成4)年3月

○厚別開基百年史 厚別開基百年記念事業協賛会編集部 1982年(昭和57)8月

〇北海道開拓の村調査研究中間報告5「地域における宗教施設の役割について

 ~信濃神社と諏訪出身者~」 細川健裕 2004(平成16)年3月

○信濃神社百年 「信濃神社百年」編集委員会 2000(平成12)年4月

〇北海道新聞 昭和59年 5月20日朝刊・5月28日朝刊・5月31日朝刊・7月25日朝刊・8月23日夕刊

○厚別黎明期の群像~こうして札幌市厚別区の歴史は始まった~ 松山瑞穂ほか 2013(平成25)年9月

○創業の人々を語る 若林功 1938(昭和13)年9月

○小野幌開基百年 小野幌開基百年記念協賛会 1988(昭和63)年9月

〇輝く白石・厚別一二〇年の人びと 一二〇年の人びと編集委員会 1990(平成2)年12月         

○山本開基百年記念誌  山本開基百年記念事業協賛会広報部会 2008(平成20)年12月

〇北の生活文庫第5巻「北海道の衣食と住まい」 北の生活文庫企画編集会議 1997(平成9)年10月

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