チャレンジ トピック ヒストリー

新札幌50年(4)「光の広場」

サツエキでの待ち合わせ場所と言えば、西口にある安田侃(やすだ・かん)の大理石の彫刻「妙夢(みょうむ)」の前。大通は地下街の三越前にある大型ビジョン「HILOSHI(ヒロシ)」の前と言われています。では、シンサツで待ち合わせをする時はと言いますと、やっぱりサンピアザ1階の「光の広場」ですよね。広さ約350㎡。サンピアザ(Sun太陽+piazza広場)の中心にあり、トップライトの陽光が5層の吹き抜けを通って降り注ぎます。新札幌初のショッピングセンターとして、「サンピアザ」がオープンしたのは1977(昭和52)年6月10日。以来、「光の広場」では、「サンピアザ」を所有・運営する札幌副都心開発公社によって、多種多様なイベントが開かれ、街の賑わいを象徴する空間として親しまれて来ました。「新札幌50年」、今回は北海道新聞や、札幌副都心開発公社の社史を手がかりに、「光の広場」の軌跡をたどります。

ファッションショー

1980(昭和55)年3月10日 北海道新聞 朝刊

まずはオープン3年後の1980(昭和55)年3月9日に開かれたファッションショーです。3月と言えばまだ雪の残る季節ですが、サンピアザのショップが春・夏向けファッションをPRしようと行いました。北海道新聞の記事には、午後1時と3時の2回、40分間ずつ行われたとあります。スポーツウェアや夏のスーツ、それに水着も披露されました。水着のショーの時には、シャボン玉が噴き出すというオシャレな演出もあったということです。サンピアザにとって、開店から、地下鉄東西線が延伸されて「新さっぽろ駅」が開業する1982(昭和57)年までの5年間は、思うように客足が伸びず、辛抱の時代だったと言われています。ファッションショーには、お客を引き付け、何とか売り上げを伸ばしたいというテナントのみなさんの切なる思いが込められていました。

札幌交響楽団のコンサート

1981(昭和56)年3月15日 北海道新聞 朝刊

1981(昭和56)年3月14日、「光の広場」にオーケストラの音色が響き渡りました。主催したのは、厚別が分区される前の白石区。札幌交響楽団の68人のフルメンバーがヨハン・シュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲をはじめ7曲を披露。子どもたちのために「宇宙戦艦ヤマト」が演奏されたほか、地元の4つのママさんコーラスのメンバー80人が「花」などを合唱しました。札響のホームページにある「札響60年史」には、これまでのすべてのコンサートが掲載されています。それをチェックしたところ、ショッピングセンターでコンサートが開かれたのは、このサンピアザが初めてだったことが確認できました。道新の記事には、2000人の市民が詰めかけ、2・3階の回廊もびっしりだったと書かれています。2000人と言えば、大きなコンサートホール並みの観客ですよね。確かに、2・3階の回廊は桟敷席のようでもあり、吹き抜けの空間全体が劇場としてのポテンシャルを備えているのかもしれません。札響のコンサートは翌年の6月10日にも、サンピアザのオープン5周年を記念して、さらに多くの合唱団が参加して開かれています(札幌副都心開発公社の主催)。単なるベッドタウンではなく、文化の香りのする街にしたい。2年連続で開かれたコンサートにはそんな熱い思いが込められていたのではないでしょうか。

現金つかみ取り

1982(昭和57)年11月20日 北海道新聞 夕刊

上の新聞広告は、1982(昭和57)年のサンピアザの歳末大売り出しのものです。3000円分の商品を買うと、抽選ができ、当たると現金つかみ取りができるとあります。特賞「1000円札のつかみ取り」は50本。抽選会場は「光の広場」でした。この年の3月、地下鉄東西線は「新さっぽろ」まで延伸されました。買い物客は大幅に増え、歳末大売り出しにも力が入っていたとみられます。もし私がこのつかみ取りに当たったら、指の間を裂けんばかりに広げ、「もっと手が大きかったらなあ」と心の中でつぶやきながら、わずかに指に引っかかっている札さえ落とすまいとそっと手を引っ張り上げる。想像しただけでもエキサイティングです。一体いくらぐらいつかめたんでしょうね。1994(平成6)年5月のサンピアザの新聞広告では、4泊6日のハワイ旅行が100本当たるとうたわれています。法規制もあって近年は高額な景品は控えられるようになっていますが、「光の広場」は庶民の小さな夢が当たる場所でもあったんすね。

公立高校の合格発表

「札幌副都心開発公社10年小史」より

1984(昭和59)年3月16日、「光の広場」に公立高校合格者発表のプリントが掲示され、合格発表が行われました。「こんなこともやってたの?!」。私が今回確認したイベントの中でも一番意外なものでした。札幌副都心開発公社の「10年小史」で見つけたんです。写真を見ると、広場のあちらこちらに掲示板が置かれ、大勢の人たちが詰めかけているのがわかります。「小史」には、「受験校に行かないで光の広場に来た受験生も多く、光の広場はいつもと違った人波と興奮に包まれた」と書かれています。どのようにして学校側の協力を得たのかなど、実現までの詳しい経緯について公社に尋ねてみましたが、もう資料が残っておらず、わからないとのことでした。それにしても、広場の活用についてあの手この手と知恵を絞り、挑戦していたことが伺えます。

釜本邦茂のサッカー教室

1987(昭和62)年1月9日 北海道新聞 朝刊

1987(昭和62)年1月8日、サッカー教室が行われました。講師は釜本邦茂さん。1968(昭和43)年のメキシコ五輪で7得点を挙げてこの五輪の得点王に輝き、日本の銅メダル獲得に大きく貢献したレジェンドです。道新の記事よると、「光の広場」には縦12m、横10mのミニグラウンドが設けられたといいます。札幌市内の4つの小学生サッカーチームから5人ずつが参加し、釜本さんたち2人と5対2で対戦したということです。今で言えば「キング・カズ」のようなスーパースターに教わったわけですから、子どもたちにとっては一生の思い出になったのではないでしょうか。この年の6月には、サンピアザの開業10周年を祝って、「ミスター」こと長嶋茂雄さんのトークショーも開かれています。「光の広場」は、多くの有名人に出会える特別なステージでもあったんですね。

みんなで応援!

2000(平成12)年10月22日 北海道新聞 朝刊

「光の広場」には、65インチの大型テレビが置かれています。日本ハムやコンサドーレの試合、大相撲、甲子園の熱戦などに見入る人たちの姿をよく見かけます。テレビに映し出す番組は、スタッフの方が、毎朝番組表をチェックし、みんなの関心の高そうな番組を視聴予約してくれているんです。スポーツのビッグゲームの時にはパブリックビューイングのような状態になり、「広場」は熱気に包まれます。2000(平成12)年10月21日夜、大型テレビでは、神奈川県の平塚競技場で行われていたJ2のコンサドーレ札幌と湘南ベルマーレの試合が生中継されていました。この試合には、コンサドーレの3シーズンぶりのJ1復帰がかかっていました。道新によると、「光の広場」には約400人が詰めかけ、8時51分、コンサドーレが勝ってJ1復帰を決めると、歓喜に沸いたといいます。試合会場には行けないけど、みんなと一緒に声援を送りたいという人には「光の広場」がある。「広場」は地域の人たちが感動を共有できる場所でもあるんですね。

65インチの大型テレビ 「大相撲名古屋場所」に見入る人たち

ここまでご紹介したのは、「光の広場」で行われたイベントのごく一部です。先日、「広場」にいらっしゃっていた方に、この広場についてお話を伺いました。「ボクシングの世界チャンピオンだった内藤大助が来た時、子どもを連れて来たね。子どもが小さかった頃は、イベントがあるとよく来てましたよ」と話すお父さんもいれば、「現金つかみ取りをやっていたのは覚えてる。私は当たったことないけどね」と笑って話してくれたお母さんもいました。「きょうはここで待ち合わせです」という女子のグループ、「家内が買い物をしているんで、ここで待ってます」と話すご主人。広場にはきょうもいろんな目的で地域の人たちが集っています。新型コロナのために開催できなかったイベントもようやく復活してきています。これからも街の真ん中にあって、光を放ち続けてほしい。そう思います。

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