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奥深い「ひな人形」の世界

少しずつ日差しも明るくなり、春が近づいていると感じられるようになりましたね。まさに♪春よ来い 早く来い♪という気分です。そこで春を少しでも手繰り寄せようと「北海道開拓の村」に行ってみました。2月23日から「ひなまつり」が開かれていると聞いたからです。

2月25日、「開拓の村」はまだ深い雪に覆われていましたが、メインストリートのあちこちにはピンクの案内が貼られていました。ひな人形が展示されている建物の目印です。10の建物で、市民から寄贈された明治から平成までのひな人形23組が展示されています。前日までに予約をすれば、15分から30分程度、学芸員に案内してもらうこともできます。私も学芸員の平井郁(ひらいかおる)さんから見どころなどについてお話を伺うことができました。

平井さんが案内してくれたのは、旧浦河支庁庁舎です。ここには、明治末期、大正8年、昭和5年、昭和21年と4つの年代のひな人形が飾られていました。平井さん曰く「女びなの顔はその時代の理想の美人顔と言われています」。よく見ると確かに結構違います。大人っぽい正統派の美人顔から、少し子どもっぽい親しみやすい顔に変わってきたような感じもしますが、いかがでしょうか。平井さんがまず解説してくれたのは、最も古い明治末期のひな人形でした。オホーツクの湧別町の方から寄贈されたものです。「昔はひな人形は今以上に高価なものだったので、なかなか買えなかったんです。一段ずつ、あるいは一体ずつ買いそろえていくことも多かったんです」。

確かによく見ると、男びな・女びなと、三人官女、五人囃子では、人形の大きさも、台座の模様も違います。年月をかけて少しずつ買いそろえていったとなると、ありがた味が増しますよね。親の子どもに対する深い慈しみを感じます。増えていく人形を手にして喜ぶ女の子の姿が目に浮かぶようです。平井さんによると、ひな人形をセットで買うことが多くなったのは、高度経済成長期の昭和40年代ごろからだということです。

平井さんがもう一つ勧めてくれたのは、一般的なひな人形に添える形で飾られている「添えびな」に注目してみることです。添えびなには子どもの健やかな成長を願う親の気持ちが見て取れるというのです。

は「浦島太郎」。左手に持っているのは玉手箱です。時を超えて長生きするようにという願いが込められています。は「花咲か爺さん」。正直に生きれば幸せが訪れるというお話です。絵本の普及にともなって、こうした昔話に因んだ添えびなが増えていったといいます。は「共白髪」。夫婦が仲睦まじく共に白髪になるまで長生きするようにという願いが込められています。は「狆引き(ちんびき)」。狆は日本伝統の小型犬です。犬はお産が軽いということで、安産の守り神として親しまれてきたといいます。平井さんの解説は謎かけを解いていくようで、とてもおもしろかったです。

昭和21年のひな人形

さて、まったく別の観点から私が特に興味をもったのが昭和21年のひな人形です。道北の苫前町の方から寄贈されたものだといいます。昭和21年と言えば、終戦の翌年。社会全体が混乱し、食べ物にもこと欠いていた頃で、ひな人形にとっても受難の時代でした。下の新聞広告をご覧ください。昭和17年2月8日の北海道新聞に掲載されたものです。今回、図書館で新聞を検索していて見つけました。

大正から昭和初期にかけては、毎年桃の節句が近づくと、新聞にはデパートや呉服店のひな人形の広告が競うように掲載されていました。しかし、上の札幌三越の広告の後は、パタリと姿を消すのです。あらゆる物資が統制され、大東亜戦争写真展が大々的に開催された時代、ひな人形を作る材料もなければ、飾るムードもなくなりました。昭和21年のひな人形は、戦争も終わり、再び子どもの健やかな成長を願ってもいい時代になった時、真っ先に購入されたものということになります。「戦前の在庫が店の倉庫に眠っていたのだろうか」「戦争から帰ってきたお父さんが娘に買ってあげたんだろうか」「もののない時代の七段飾りは相当高かったにちがいない」。そんなことを考えながら眺めていると、興味は尽きないのです。

さて、次に訪ねたのはお向かいの旧来正旅館(くるまさ)です。戸を開けると、とびきり豪華な七段飾りが目に飛び込んできました。牛車や鏡台、お膳、たんすや棚など、お姫様の嫁入りを思わせる多種多様なひな道具が飾られています。なんといっても一番目を引くのは最上段にすえられた御殿です。中央に男びな・女びなが、向かって右に三人官女、左に五人囃子が配されています。ここで「あれ?」と気づきました。このひな人形では、男びなが向かって右に、女びなが向かって左に飾られています。旧浦河支庁庁舎に飾られていた4組のひな人形をはじめ、今広く目にするひな人形とは並びが逆です。ところが、調べてみると、昔はこの飾り方が一般的だったことがわかりました。しかも、並べ方が逆転したのには、天皇・皇后が大きく影響しているというのです。

というのも、ひな人形は内裏びなと言うように、宮中のようすを模しています。中国では古来「天子南面す」とされ、皇帝は南を向いて座ることになっていました。皇帝から見て左(向かって右)が日が昇る東の方角(陽)に当たるため、西の方角(陰)となる右(向かって左)より上位とされてきました。日本もこれに習ってきたため、ひな人形も男びなは向かって右に、女びなは向かって左に飾られてきたんです。ところが、明治以降「男性は向かって左、女性は右」という西洋の文化が入ってきます。そして、天皇・皇后も西洋式に改めたため、ひな人形の並べ方も西洋式に変わったというのです。

上の肖像・写真は、歴代天皇が皇太子時代に結婚された際に道内の新聞に掲載されたものです。1900(明治33)年の大正天皇の時には天皇が向かって右で、皇后が左ですが、1924(大正13)年の昭和天皇の写真では逆になっています。それ以降は、上皇が結婚された際の写真にもあるように、西洋式の並び方になっています。こうした流れを受けて、ひな人形の並べ方も変わったというのです。具体的にいつ頃変わったのか。500組以上のひな人形を所蔵している日本玩具博物館(兵庫県姫路市)の学芸員・尾﨑織女(おさきあやめ)さんに伺ったところ、ひな人形を買った際についていた飾り方の説明書や、ひな人形が描かれた掛け軸(高価なひな人形の代わりに飾られたもの)などからして、昭和の初め頃と見られるとのことでした。因みに、伝統を重んじる京都では、今も古来の飾り方をしていて「京飾り」と呼ばれているほか、西日本では今も「京飾り」をしている家庭もあるということです。東京・大阪・京都に店舗を持つデパートの高島屋に売り場での展示方法について尋ねたところ、東京店と大阪店は現代風、京都店は「京飾り」をしているとのことでした。「開拓の村」では、寄贈してくれた方から、どのように飾っていたかを聞き取り、それを再現しているということです。旧来正旅館のひな人形は大正14年のものということですが、切り変わる前の伝統的な飾り方を今に伝えているんですね。飾り方ひとつ取っても奥の深さを感じます。

左下は台北からの夫婦

ひな人形の展示会場には大勢の観光客がやってきて、写真を撮ったり、自身の少女時代の思い出話に花を咲かせたりしていました。千歳市から娘さんと一緒にやって来たというお母さんは「実家では七段飾りをしていましたが、今は飾るスペースがないので、男びなと女びなだけを実家から持って来て飾っています。でも、こうして飾ると豪華でいいですね」と話していました。台北から来たという若い夫婦は「ウーロンパイで見たことがある。本当に壮観ですね」と話し、盛んに記念写真を撮っていました。「えっ、ウーロンパイ?」。よくよく聞いてみると、『こち亀』こと『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の中国語版のタイトルが『烏龍派出所』(ウーロン・パイチュースオ)で、このマンガ・アニメでひな人形を見たことがあると話しているのだということがわかりました。現代の日本文化であるマンガ・アニメが伝統文化の理解にも貢献している。これもまた奥深い話でした。

この「北海道開拓の村のひな飾り」は3月21日まで開かれています。ぜひ解説を予約して行ってみてください。

繭で作ったひな人形。開拓の村で飼育したカイコの繭を使っています。

【参考文献】

「日本の御人形」 池田萬助・池田章子 2000年

「虎屋のお雛様 株式会社虎屋 2006年

「雛人形と武者人形」 淡交社編集局 2010年

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