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老舗中の老舗

今回は、前回の「厚別歴史写真パネル展」で出会った冒頭の写真をめぐる物語です。看板には勢いのある大きな字で「大坂床」とあります。大坂(おおさか)さんが営む床屋という意味です。いつ開業したのかはわかっていませんが、厚別では最初の床屋と言われています。厚別駅付近から国道12号線まで伸びる「停車場通り」にありました。かつては厚別で一番賑やかな商店街だった通りです。店の窓や板壁は白く塗られ、ハイカラな雰囲気が感じられます。実はこの床屋さん、120年以上たった今もまったく同じ場所で営業しているんです。下の写真が今の「理容おおさか」です。お店の壁には、大きく引き伸ばした冒頭の写真が掲げられていました。営業しているのは5代目の大坂勝さん(まさる 77)と妻のマキ子さん(77)。4代目だった叔父さんの跡を継いでおよそ40年になります。

店の壁には「大坂床」の写真が

最初の写真をもう一度よく見てみましょう。この写真がいつ撮られたのか、記録はありませんが、明治33年の写真と見られています。というのも、床屋の入り口で椅子に座っている赤ちゃんが、勝さんの祖母のサキさんであることがわかっているからです。サキさんは明治32年の生まれ。サキさんのようすからして1歳ごろ、つまり明治33年(1900)の写真ではないかというわけです。白衣を着て入り口の左手に立っているのが、初代の與三松(よさまつ)さんです。富山県から北海道に渡ってきて、この店を開業しました。右の屋根の少し低い部分が床屋、左の屋根の高い部分は薬局でした。與三松(よさまつ)さんの娘で、サキさんの母親のスズさんが経営していました。やっぱり、富山と言えば薬ですよね。床屋の入り口には日の丸が掲げられ、軒下には提灯や花飾りが飾られています。夜はさぞかしきれいだったでしょうね。戸や窓が開け放たれていることから、季節は夏か。となると、6月15日の北海道神宮(当時は札幌神社)の例大祭か、9月に行われる地元・信濃神社の例大祭の時だったかもしれません。わざわざ写真屋を呼んで、家族みんなで記念写真を撮っていることからして、大坂家の商売は繁盛していたことがうかがえます。近くには明治27年に厚別駅が、28年に厚別巡査駐在所が、29年には厚別郵便局ができています。「大坂床」も、開拓地に市街地が形成されていく上昇気流の中にありました。

この写真が明治33年に撮られたものだとすると、札幌の理容業の歴史の上でもエポックとなった時期の貴重な一枚ということになります。與三松さんは白衣を着ていますよね。「北海道理容100年史」には、「明治32年中富豊太郎と言うもの初めて理髪に従事する際、白衣を着用してから同業者も多く使用するようになった」とあります。道内で白衣が初登場して1年後には與三松さんも白衣を取り入れていたことになります。「100年史」には、この頃からカミソリも西洋式のものに変わったとあります。

また、明治33年の翌年34年には、理容業の基本法令「理髪営業取締規則」が制定されました。理容店を営むには警察署への届け出が必要になりました。「規則」は伝染病を防ぐ観点から、客のカットが終わるたびに、石けんで手を洗い、薬品で器具を洗浄することなどを定めています。理容業が法律の上でもきちんと位置づけられ発展していく、そんな時期でした。それにしても、今理容業を管轄しているのは保健所ですが、昔は警察だったとは驚きですね。「北海道理容100年史」には「規則の順守については非常に厳しく警察官が規則書を持参し各理髪店を立ち入りし消毒法、其の他の指導を行った。」という回顧談が載っています。

さて、「大坂床」の写真には、実は初代・與三松をめぐるもう一つのエピソードが隠されています。「大坂床」の看板に注目してください。よく見ると「大」の字の右側に軍配が描かれています。「床屋に軍配?」、何の関係があるのと思ってしまいますよね。その謎を解くカギが大坂家に残されていました。それが下の写真です。

撮られた時期はわかりませんが、写真の裏側には「明治三十八年一月撮影 石狩國立行司 木村與三松 五十一年」と書かれていています。大相撲の立行司は「木村庄之助」。地元の相撲大会で立行司をしていた與三松さん、「木村」を名乗っての晴れ姿です。明治38年に51歳というのが満年齢だとしたら、與三松さんは、ペリーが来航し、翌年日米和親条約が結ばれた(1854年)ころに生まれた人だったことになります。

もう一枚の写真(撮影場所・時期は不明)では、筋骨隆々の若者たちの真ん中に行司姿の與三松さんが写っています。まだ野球も普及していなかった時代、地域の相撲大会はスポーツ・娯楽の花形でした。その立行司だったわけですから、人望があり、声もよく、しかも能書家だったとみられます。というのも、大相撲では番付表を行司が手書きします。大坂家には、與三松さんは字が上手で、番付表も書いていたと伝わっています。「大坂床」の看板の字も、與三松さんが書いたのではないでしょうか。地域で唯一の床屋で、しかも立行司。與三松さんはかなりの有名人だったようです。

大坂家は冒頭の写真が撮られたとみられる明治33年から数えても122年、同じ場所で理容店を営んできました。太平洋戦争中の昭和18年には「理・美容男子就業禁止令」が出され、理容に従事している40歳未満の男子は戦争配置の生産部門への転職を余儀なくされるなど受難の時代もありました。今の新札幌駅のあたりはかつては陸軍の弾薬庫でしたが、それを接収した進駐軍の兵士が客としてやって来たこともあったということです。

5代目の勝さんは東京に修業に出て、銀座の理容店で働いている時に同僚だったマキ子さんと結婚。昭和58年(1983)に厚別に帰り、マキ子さんとともに4代目の叔父さんの跡を継ぎました。勝さんは「昔からのお客さんも来てくれたし、パーマの技術を持っていたので、パーマをかけたいという新しいお客さんも来てくれて、昼ご飯を食べる暇がないほど忙しかった」と当時を振り返ります。平成8年には今の店舗を建てました。私が取材にお邪魔した日も、常連客が次々とやってきました。73歳の男性は「親の代から通っています。厚別界隈で床屋と言えば大坂さんでした」と話してくれました。上野幌から来たという男性も「就職して20代でこの近くのアパートに住んだ時から来ています。上野幌に家を持ちましたが、その後も35年近く通っています」と話していました。「ここに来るのが何よりの楽しみ」とお礼を言って帰るお客さんもいて、みなさんがこのお店に老舗ならではの信頼感や親近感を感じていることがうかがえました。大坂さん夫婦は「地域の人たちに親しまれてきたことは誉れだと思います。跡継ぎがいないので私たちの代で終わると思うけど、来てくれるお客さんがいる限りやっていきたいと思っています」と話していました。「老舗中の老舗」の心意気、「あつ!ベンチャー」も応援しています!

【参考文献】

「北海道理容100年史」 北海道理容100年史編纂委員会 昭和57年1月

「札幌理容協同組合設立50周年史」 札幌理容協同組合五十周年記念誌編纂部会 編 2001年

「厚別開基百年史」 厚別開基百年記念事業協賛会編集部 昭和57年8月

「厚別中央 人と歴史」厚別中央地区まちづくり会議・厚別中央歴史の会 編  2010年10月

「厚別黎明期の群像ーこうして札幌市厚別区の歴史は始まったー」

    松山瑞穂、河西敬一、黒田重雄、高橋清一、多田一也、中澤豊、根岸徹  平成25年9月

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