ストーリー パーソン ヒストリー

仲間どうし 心をほぐす

毎月20日前後の日曜日、もみじ台団地の中心部にある「もみじ台管理センター」では、体操とおしゃべりを楽しむ集いが開かれています。7月17日はあいにくの雨でしたが、厚別区をはじめ札幌市内から10人が集まりました。会場では日本語と中国語が乱れ飛びます。というのも、参加しているみなさんは、太平洋戦争末期の混乱の中で中国東北地方に取り残され、数十年後に帰国した「中国残留邦人」とその家族だからです。

この集いは、帰国した「残留邦人」の支援を行っている北海道社会福祉協議会の「中国帰国者支援交流センター」が開いています。「残留邦人」の方たちは80代から90代に、その子どもである二世たちも多くは50代から70代になっています。集いはそうしたみなさんの健康づくりと仲間どうしの交流のために7年前から行われています。今では参加者の多くは二世の方たちです。この日も、まずは北海学園大名誉教授の竹田憲司(たけだ・けんじ)さんの指導の下、1時間ほど体操を行いました。筋力とバランス感覚を保ち、転倒を防ぐこと、そして脳を活性化させることがポイントです。竹田さんの話は、仲間の通訳が中国語で参加者に伝えます。中には幼いお孫さんたちもいて、あどけない仕草にたびたび笑い声が起きるなど、和気あいあいとした雰囲気に包まれていました。

昭和20年(1945)当時、旧満州(中国東北地方)には国策によって全国各地から入植した多くの開拓移民が住んでいましたが、終戦直前の旧ソ連の参戦で戦闘に巻き込まれるなど、大混乱に陥りました。そうした中で、中国に取り残された子どもなど、帰国できなかった方たちが「中国残留邦人」です。1972年に日本と中国の国交が回復しましたが、国による訪日調査が始まり、帰国が本格化したのは1980年代に入ってからでした。道社協の「中国帰国者支援交流センター」によりますと、札幌に住む帰国者は、配偶者や子どもなども含めて約420人とみられ、その3分の1、130人余りの方が厚別区内で暮らしているということです。一世・二世の多くは今も中国語で生活していて、日本語はあまり話せません。帰国後も十分な日本語研修が受けられなかったことに加え、生活のために働かなければならず、日本語を身につける機会も余裕もなかったといいます。そんな苦労をしてきた仲間どうしの交流の場が、この集いなのです。

長野太郎さん(82)と手記

もみじ台団地に住む長野太郎(ながの・たろう 82)さんは、厚別区内で暮らす帰国者のリーダー的存在です。「これまでの人生についてお話を聞かせてください」とお願いしたところ、A4版で15ページにわたってぎっしりと書き込まれた手記(日本語訳)をいただきました。そこには波乱万丈という言葉さえチッポケに思えるような苦難の人生が綴られていました。

長野さんは1940年の生まれ。旧ソ連軍の攻撃に遭って5歳で孤児となり、二組の中国人の養父母に救われ、育てられました。しかし、文化大革命の時、日本人であるためにスパイなどの濡れ衣で投獄され、機械修理の工場長の仕事も失いました。その後脱走し、しばらくは山の中に身を隠して暮らしたといいます。1986年、訪日調査に参加し肉親を捜しましたが、見つかりませんでした。身元不明のまま、中国人の妻や4人の娘とともに1990年、50歳の時に帰国。中国東北地方と気候風土が似ているということで、北海道を永住の地に選んだといいます。しかし、帰国後も国からは十分な支援が受けられず、日本語も話せないまま、清掃や車の解体の仕事をしたりして子どもたちを育て上げました。2003年、札幌でも、国に棄民政策の責任を問うとして国家賠償を求める裁判が起こされました(2002~2005年に全国15か所で提訴)。長野さんは北海道の原告団85人の団長を務めました。一審は敗訴でしたが、各地の裁判や世論に押される形で、2007年に生活支援給付金の支給などを盛り込んだ改正中国残留邦人支援法が成立。各地の原告団もこれを受け入れ、裁判は終結しました。これほどの人生を生き抜いてきたとは、穏やかな表情の長野さんからは想像もできませんでした。「政府がもっと早く私たちの帰国のために動いてくれていたら、もっと若いうちに帰国できた。もっと早く生活を支援してくれていたら、勉強する時間ももてただろう。そうしたら、日本語を身につけられただろうなあ。」胸の奥には今も悔しい思いがあります。

集いでは、体操が終わると、お茶を飲み、お菓子をつまみながらの茶話会が始まりました。世間話から、孫の成長、持病などの悩みごとまで、仲間どうし中国語で気兼ねなく話すことができます。女のお孫さんと来ていた佐藤慶子さん(さとう・けいこ 65)は残留孤児の二世です。もみじ台団地で夫と二人で暮らしていますが、3人の娘さんも近所に住んでいて頻繁に行き来しています。「幼稚園の送り迎えやらなにやら、孫の世話が大変です。」と笑顔で話してくれました。長野さんも今は妻と二人暮らし。「お孫さんは何人いらっしゃいますか」と尋ねると、指を折りながら「10人以上います」と顔をほころばせていました。今は娘さんたちにも手伝ってもらいながら、近所の家庭菜園でトマトやキュウリを作るのを楽しみにしています。みなさん苦労してきただけに、家族の絆は人一倍強いということです。

新型コロナ禍の前までは、茶話会に続いて中国の踊りの稽古もしていたほか、車で富良野や岩見沢への日帰りツアーに出かけたりしていました。また、一般の地域の人たちにも参加してもらっていましたが、今は見合わせています。早く元どおりの活動ができるようになればと願う戦後77年の夏です。

【参考文献】

「中国残留邦人──置き去られた六十余年」井出孫六 岩波新書 2008年3月

「幻の村──哀史・満蒙開拓」手塚孝典 早稲田新書 2021年7月

「あの腕、あの胸のなかへ 中国「残留孤児」国家賠償請求札幌訴訟の軌跡」 中国「残留孤児」国家賠償請求札幌訴訟原告団・弁護団 2010年3月

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