カルチャー ヒストリー

「厚別」には兄弟がいる!

校名の物語

私は厚別中学校の近所に住んでいます。3人の子どもたちはみなこの中学校を卒業しました。しかし、この厚別中学校と同じ表記の中学校がかつて別の区にあったことは、最近まで知りませんでした。しかも、「厚別」の読みが「あしりべつ」だったというんです。その中学校は清田区にありました。今の清田中学校です。清田中学校(昭和22年(1947)開校)と清田小学校(明治32年(1899)開校)は開校以来、地元の地名を取って「厚別中学校」「厚別小学校」(いずれも読みは「あしりべつ」)を名乗ってきました。しかし、厚別(あつべつ)にある学校と間違えられるということで、清田町内会連合会が札幌市議会に校名変更の請願を出すなど地元住民が運動を展開した結果、昭和47年(1972)年4月に現在の校名に改められたのです。

校名変更を伝える学校新聞   新旧の校章(清田中学校玄関にある校史の展示コーナーより)

現在の厚別(あつべつ)中学校はその12年後に開校しました。それ以前に、厚別区内に「厚別」という名前の付いた小中学校はありませんでしたが、厚別中学校が誕生して以降「厚別西小」「厚別北小」「厚別南中」「厚別通小」と、「厚別」を冠した小中学校が続々開校しました。清田中、清田小に名前を変えてくれたおかげで「厚別」という校名を付けやすくなったという事情もあったのではと思われます。

「あつべつ」と「あしりべつ」

清田区には、今も街を見下ろす高台に「厚別神社(あしりべつ)」が鎮座しています。逆に厚別区には「厚別神社」はありませんよね。この他にも「あしりべつ」を冠した病院や薬局などがあります。清田区エリアでは、昭和19年(1944)に当時の豊平町が字名を変更し、清田や北野、平岡などの現在の地名が誕生しました。しかし、それ以前は、「厚別本通」「厚別北通」「厚別南通」など「あしりべつ」という地名が広く使われていました。厚別区の「あつべつ」と清田区の「あしりべつ」が長い間共存していたんですね。

了寛紀明さん(78)と「あしりべつ郷土館」         

では、「あつべつ」と「あしりべつ」という二つの地名にはどんな歴史的経緯があるのか。清田区の歴史を語り継いでいこうと、地元住民が運営している「あしりべつ郷土館」を訪ねてみました。そこでお会いしたのが郷土史研究家の了寛紀明さん(りょうかん・のりあき 78)です。了寛さんは多くの文献や地図などを丹念に調べていて、郷土館にはその研究成果を集めた「了寛紀明文庫」も設けられています。了寛さんによると、二つの地名のもとになったのは厚別川だといいます。南区滝野の山奥から清田区、そして厚別区と白石区の区境を流れ、江別市で豊平川に合流する、全長約45㎞の一級河川です。現在の正式名称は「あつべつがわ」と読みますが、清田区の人たちは「あしりべつがわ」と呼んで来ました。了寛さんは「厚別」という地名はおおよそ次のような経緯をたどったとしています。

1.江戸時代、アイヌの人たちは厚別川を「アシュシヘツ」「ハシュシベツ」「アシスベツ」などと呼んでいました。北海道の名付け親・松浦武四郎の「東西蝦夷山川地理取調図」にはカタカナで「アシュシヘツ」と書かれています。その意味について「木の枝でヤナ(魚を捕るための仕掛け)を設けたところ」と書いています。

あしりべつ郷土館の展示パネル

※厚別区が出した「あつべつ区再考」では「厚別」の由来について「「ハシ・ペツ」(かん木の中を流れる川)から当て字したものとも、「アツペツ」(オヒョウダモのある川)であるともいわれています。」としています。厚別川に立てられている河川名の表示板にも同様の由来が書かれています。アイヌ語地名の解釈については諸説あります。

あしりべつ郷土館の展示パネル

2.明治に入ると、上の図のように、北海道開拓使がこの川の名前や流域の地名として、さまざまな文書に漢字で「厚別」という表記を用いるようになりました。実際の発音・呼び方はまだ様々でしたが、「厚別」という漢字を当てたことで、一番読みやすい「あつべつ」という読み方も徐々に広まっていきました。

3.明治27年(1894)に北海道炭礦鉄道手宮線(現JR函館線)に厚別停車場が開業しました。この駅名が「あつべつ」という読みだったことから、この駅周辺の地域を「あつべつ」と呼ぶ呼び方が定着していきました。これが決定打となりました。

 ※明治35年(1902)に、当時の白石村は行政区域として15の「部」を設けましたが、その際に「厚別東部」「厚別西部」「厚別川下部」(いずれも「あつべつ」)の各部が設けられています。

4.一方、現在の清田区エリアでは、「厚別」と書いて「あしりべつ」という読む呼び方が定着していきました。明治18年(1885)には厚別神社(あしりべつ)が創設され、明治32年(1899)には月寒尋常小学校厚別分教場(あしりべつ 後の厚別小⇒清田小)が開校しました。

こうして、「あつべつ」と「あしりべつ」は長い間共存することになりました。しかし、昭和19年に清田区エリアの字名が変更され、正式な住所としては「あしりべつ」がなくなったことに加え、昭和47年に小中学校の校名が変更されたことなどから、「厚別」=厚別区エリアという認識が一般的になりました。平成元年(1989)に厚別区が白石区から分区した際にも区の名前として採用されたという次第です。清田区では、かつてこの地域が「厚別(あしりべつ)」と呼ばれていたことを知らない住民が多くなっています。でも、了寛さんは「地域の歴史に誇りをもっていますから、これからも「あしりべつ」を語り継いでいきたいですね」と話していました。

兄弟橋

国道12号線と清田区の市道の「厚別橋」

こうして見てくると、「あつべつ」と「あしりべつ」は兄弟なんだと思えて来ませんか。そのことを実感させてくれるものが今も残っています。それは厚別川に架かる二つの橋です。一つは国道12号線の「厚別橋(あつべつ)」です。12号線を白石方向に進むと、札幌徳洲会病院を過ぎて大きく右にカーブしますが、そのカーブを曲がった後の、厚別区と白石区の区境にある橋です。もうひとつは、この橋から厚別川を3.2㎞遡ったところにある「厚別橋」。清田小学校前の市道に架かる橋で、こちらは「あしりべつ」と読みます。同じ川のわずか3㎞余りの区間に、同じ漢字表記で読みの異なる橋が架かっているわけです。なかなかの珍百景ですよね。でも、この奇妙な事実こそ、二つの地域が1本の母なる川で結ばれた兄弟であることを象徴しているように思うのです。

【参考文献】

〇「厚別」アシリベツの表記について(あしりべつ郷土館のホームページ) 了寛紀明

〇昭和19年 清田地域の地名変更について(あしりべつ郷土館のホームページ) 了寛紀明

〇清田の地名「厚別(あしりべつ)」について(あしりべつ郷土館のホームページ) 了寛紀明

〇さっぽろ文庫1「札幌地名考」 札幌市教育委員会文化資料室 昭和52年

〇さっぽろ文庫8「札幌の橋」 札幌市教育委員会文化資料室 昭和54年

〇清田地区百年史 清田地区開基百年記念事業実行委員会 昭和51年

〇あつべつ再考 札幌市厚別区  平成6年

〇厚別開基百年史 厚別開基百年記念事業協賛会編集部  昭和57年

○札幌の地名がわかる本 関秀志編 2018年

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