カルチャー ストーリー ヒストリー

開拓農家の子孫が支える地域の神社

去年、地元・厚別東の昔のようすについて話を聞きたいと町内会の関係者に当たっていたところ、「それなら小野幌神社の氏子の人たちに聞けばいい」というアドバイスをいただきました。神社の氏子はみんな開拓農家の子孫で、昔からこの地域に住んでいる人たちだというのです。「えっ、そうなんですか」。早速、神社の役員の方たちに連絡を取らせてもらいました。そして、その時のご縁で、1年で一番大勢の人たちが神社にやって来る年末年始に、神社のようすを取材させてもらうことができました。今回は意外と知らない地元の神社の話です。

小野幌神社

 初めに、小野幌神社の歴史を簡単に振り返ります。 小野幌神社は、1905(明治38)年に厚別東3条3丁目(厚別東緑地の東側)に「小野幌八幡神社」として創建されました。小野幌の開拓が始まって16年後のことです。1934(昭和9)年に現在地に移転。1949(昭和24)年には、下野幌にあった伏見稲荷小野津幌分社(通称・大沢神社)と合併しました。1983(昭和58)年に宗教法人「小野幌神社」となり、その5年後、小野幌地区の開拓百年を記念して、現在の社殿に建て替えられました。2つの神社が合併したため、武士の信仰を集めた八幡神社の神様と、商業・産業を守る稲荷神社の神様の両方が祀られているありがたい神社なのです。

 私がお邪魔したのは、大晦日の午後1時ごろ。神社の役員や氏子のみなさん15人が集まり、初詣の準備作業が始まりました。厚別区には7つの神社がありますが、神主が常駐しているのは信濃、澄丘、大谷地の3社だけです。小野幌など4つの神社は、祭祀の時だけ他の神社から神主に来てもらっています(小野幌神社は、大沢神社のつながりで、札幌伏見稲荷神社の神主に依頼)。このため、初詣の準備もすべて氏子たちが行わなければなりません。

 早速参道の石段では、参拝者が滑らないよう貼り付いた氷を取り除く作業が行われました。使っていたのは先がとがっていないスコップです。「ツルハシでやると早いんですけど、石段を傷めないようにとがっていないスコップでやってるんです」。額に汗して答えてくれました。境内を照らす照明器具の設置は数人がかりで行われていました。電源コードをどのように張るか、照明の高さや角度をどうするか、若手の人たちが年配の人たちから教わりながら作業を進めます。参拝客に甘酒を配るためのテントも張り、おみくじを結ぶための縄も新たに張り替えました。作業の途中、まだ馴染みの薄い若手が挨拶すると、他のメンバーが「○○の息子さんか」などと懐かしそうに話しかける光景が見られました。社殿の中から太鼓の音が聞こえてきました。行ってみると、太鼓の皮に霧吹きで御神酒を吹きかけているではありませんか。太鼓の皮は適度に湿っていた方がいい音が出るというのです。午前零時に新年になってから1時間、初詣客のために太鼓を打ち鳴らすのが習わしになっているということで、何度も御神酒を吹きかけては音色を確かめていました。社務所の中では、代表役員(=以前の総代長)の大江順厚(よりあつ)さんが、榊に付ける紙垂(しで)を折っていました。「玉串も氏子が作るんですか」とお聞きすると、「いつもやってることだから、難しくはないよ」とのこと。役割分担を決めた訳でもないのに、準備作業はあうんの呼吸で進み、2時間余りで新年の装いが整いました。

 準備作業が終わったところで、小野幌神社はどのように運営されているのか、お話を伺いました。それによると、小野幌神社の氏子は100人近く。代表役員(総代長)の大江順厚さん(74)をはじめ、総代と呼ばれていた責任役員(総代)が4人、監査が2人、計7人の役員が中心になって運営しています。役員をはじめ氏子全員が、この地域の開拓農家の子孫だといいます。厚別東地区は1970年代からの宅地開発によって純農村からベッドタウンへと劇的に変わりました。それから半世紀近くが経ち、今では宅地開発後に移り住んだ私のような新住民が大多数を占めています。それでも開拓農家のネットワークが今も生きていて、神社が運営されているというのは、新住民の私にとっては驚きでした。役員の木内正さん(76)によると、昔は地域ぐるみで秋祭りが行われ、境内にあった土俵で子ども相撲大会をやったり、夜には白い幕を張ってチャンバラ映画を上映したりしていたといいます。「かくれんぼをして社殿の床下に隠れたりしたんだ」と懐かしそうに語る姿からは、新住民とは全くレベルの違う愛着が感じられました。「公園」というものがなかった時代、神社は子どもたちの遊び場であり、イベント会場だったんですね。

 準備の甲斐あって、大晦日から正月三が日は、地域の人たちが次々に初詣でに訪れ、賑わいました。破魔矢やお札などの縁起物を買い求める人も多く、無料で振る舞われた甘酒も好評でした。おさい銭や縁起物で合わせて160万円余りの収入がありました。これは神社の1年間の収入の8割にも上り、神社の運営費用や修繕費など充てられます。

右上の写真が町内会長

 こうしてことしの正月対応も滞りなく終えましたが、一つだけ例年とは違うできごとがありました。元日の午前中、社殿内で行われた新年を祝う歳旦祭に、氏子以外では初めて厚別東地区の町内会長が招かれたのです。出席した4人の町内会長は全員「新住民」ですが、中には住み始めて40年以上という人もいます。それでも「神社は旧地主さんたちが運営しているもの」という考えから、これまではほとんど直接的な関わりはもってこなかったといいます。町内会長からは「お参りには来ているけど、社殿には初めて入った」という声が聞かれました。

奥の4人が町内会長  右の写真:代表役員の大江順厚さん

 今回、神社側が町内会長を招いた背景には、今後の神社の運営に対する危機感があります。氏子は以前は120人ほどいましたが、転出したり、跡継ぎがいなかったりして、少しずつ減り、今は約100人になっています。代表役員の大江さんは「このままでは先細りになるおそれがある」と案じています。地域の人たちに神社に関心を持ってもらうためにも、まずは顔合わせからと招いたのでした。歳旦祭に続いて直会も行われ、打ち解けた雰囲気で話も弾みました。そして、これを機に連携できることは連携していきましょうという話になり、大江さんにとっても幸先のいい年の初めとなりました。開拓者やその子孫が120年守り続けてきた小野幌神社。そのあり方はこれから少しずつ変わっていくのかもしれません。

境内に立つ開拓記念の碑

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