厚別区の地図を見ていて、前から「あれ?」と思っていたことがあります。「小野幌(このっぽろ)」という地区が、野幌森林公園内と厚別北の方に、飛び地で2か所あることです。そんなに離れてもいないけど、近くもない感じです。これを勝手に「小野幌の泣き別れ」と呼んでいました。実は私の住んでいる地域には小野幌という名前の施設がたくさんあります。小野幌小学校に小野幌神社、カトリック小野幌教会、地域住民の活動拠点も小野幌会館です。しかし、住所は厚別東。どういう経緯でこういう状態になったのか。「新札幌50年」第2回の今回は、ニュータウンの地名の変遷をたどります。
ニュータウン前
まずは、今から73年前の1950(昭和25)年に遡ってみましょう。この年の7月、今の厚別区を含む白石村が札幌市と合併しました。下の図は合併後の地名を示したものです。
ご覧のように、厚別地区の地名は、「白石町(ちょう)大谷地」を除いて、札幌市の後に厚別町(ちょう)が付けられています。「小野幌」は現在のような泣き別れの状態ではなく、私が住んでいる厚別東と厚別北の広いエリアが概ね「厚別町小野幌」だったことがわかります。厚別区役所やJR新札幌駅のあるエリアは「厚別町下野幌(しものっぽろ)」で、その後に「〇〇番地」が付いていました。各地名に「厚別町」が付いているので、地名の上ではこの時点で既に「厚別区」誕生への地ならしが済んでいたようにも感じられますよね。
小野幌の由来
次に、「小野幌」について見ていきましょう、この地名は、地域内を流れる小野幌川(北海道の管理)※1に由来しているといわれています。この川はもともと「ポンノッポロ川」と呼ばれていました。もみじ台の東側を流れて来る支流は、今もこの名前で呼ばれています。「ポン」はアイヌ語で小さいという意味です。「ノッポロ」もアイヌ語での「ヌプ・オル・オ・ペッ」(野の中の川の意)から来ていると言われています。小野幌川は野津幌川(のっぽろがわ)の支流で、川幅からしても「小野幌」という名前がピッタリな感じです。野幌川沿いには「下野幌」、「上野幌」があり、さらに東側には野幌森林公園、江別市野幌が広がっています。「小野幌」はこれらの地名といわば兄弟。アイヌ語をルーツとする由緒ある地名なんですね。しかし、「小野幌」は、この後ニュータウン開発の荒波にもまれることになります。
※1 地名は「このっぽろ」ですが、川の正式名称は「おのっぽろがわ」とされています。その理由・由来について、小野幌川を管理している空知総合振興局札幌建設管理部に問い合わせてみましたが、資料がなく「わからない」とのことでした。
ニュータウン開発と地名変更
厚別地区では、昭和30代以降、ひばりが丘、青葉、もみじ台と大規模団地の造成が続き、さらにJR新札幌駅周辺の副都心開発も進められます。急ピッチでニュータウンが形成されました。すると、番地の数がどんどん増えていくうえ、地名の境界が複雑に入り組んだり、番地が順序良く並んでいなかったりして、建物がどこにあるのか、わかりづらくなりました。郵便の配達なども大変になりました。このため札幌市は、区画整理などの機会をとらえて、新しくできた道路や街の区画に合わせて地名(町名)を変更して「条丁目」を導入するとともに、地番(〇〇番地)ではなく、住居表示法(1962(昭和37)年制定)に基づき、「〇番(街区符号)〇号(住居番号)」という住居表示に切り替える大幅な見直しを行いました。この地名変更・住居表示の導入は、全国各地で進められました。厚別地区でも、昭和44年以降これまでに15回にわたって、地名変更・条丁目への移行が行われています。
特に、1982(昭和57)年には、区画整理事業がほぼ終わった厚別駅前や副都心開発が進められていた新札幌駅周辺が「厚別中央」となるなど、広い地域で地名変更が行われました。この年は3月に地下鉄東西線の白石・新さっぽろ間が開通し、新さっぽろ、ひばりが丘、大谷地の各駅が開業しました。4月にはサンピアザ水族館が、6月には現カテプリのプランタンデパートがオープンしています。厚別地区のニュータウン開発が大きく進んだエポックメイキングな年でした。それに歩調を合わせて、条丁目・住居表示に変更されたわけです。これによって、たとえば、JR新札幌駅の住所は、「白石区厚別町下野幌493番地」から「白石区厚別中央2条5丁目6番1号」に変わりました。住所が整然としてわかりやすくなったほか、都会的なイメージになりました。一方で、厚別駅に近く、それまで厚別の中心として栄えてきた「厚別町東町(ひがしまち)」や「厚別町旭町(あさひまち)などの地名が姿を消しました。また、厚別地区の中央部から南東部にかけての広いエリアを占めていた「下野幌」も、野幌森林公園付近にわずかに残るだけとなりました。
小野幌は「泣き別れ」に
「厚別町小野幌」は純農村でしたが、1973(昭和48)から三菱地所が宅地の造成を開始し、「小野幌ニュータウン」として売り出しました。分譲も終盤の1983(昭和58)年、「ニュータウン」は「厚別東〇条〇丁目」になりました。その翌年には函館線以北が「厚別北(条丁目)」に変更されました。その後も、住宅地の拡大にともなって、厚別東地域で2回、厚別北地域で1回、小野幌からの地名変更が行われました。その結果、「厚別町小野幌」という地名は、冒頭で紹介したように、森林公園の一画と、厚別北の北側に「泣き別れ」状態で残るだけとなったのです。いずれの小野幌も市街化を抑制する市街化調整区域で、条丁目に変更する必要がないと判断されたものとみられます。
では、2か所の小野幌に何があるのかというと、森林公園内の小野幌には、北海道百年記念塔、北海道博物館(ともに厚別町小野幌53番地2)、開拓の村(厚別町小野幌50番地1)があります。北の小野幌には、厚別北中学校(厚別町小野幌774番地5)があります。住民基本台帳によると、住民は小野幌全体でわずかに1人。公共施設が立地する緑豊かなエリアとしてその名を留めています。
1988(昭和63)年に刊行された『小野幌開基百年』には地名変更についてこう綴られています。「今後はそれ(地名変更)に伴って、固有名詞の小野幌名称は遠からず耳にする機会が少なくなって、開拓以来の歴史が去り行く感がして惜しまれます。これも小野幌の大きな飛躍の転換期ととらえせめて、小野幌神社、小野幌川の名称位は永久に残って欲しいものです」。当時の人たちの率直な心情が伝わって来ますね。
今回取材をしていて、「厚別町小野幌」と同じように、もう一つ泣き別れになっている地名のあることに気づきました。「厚別町下野幌」です。こちらは、1980年代に作られた札幌テクノパークが割って入った格好になっています。テクノパークの住所は「下野幌テクノパーク1丁目・2丁目」。アイヌ語にルーツのある伝統的な地名と先端産業を合体させたユニークな地名ですよね。
普段何気なく目にし、使っている地名ですが、今回の取材を通して、昔からのアイヌの人たちの営みや、開拓した人たちの思い、さらに大勢の新住民が生活していくための合理的な考え方など、さまざまな歴史が詰まっていることがわかりました。市街地ではそれがどんどん上書きされていきますが、周辺部には往々にしてそのまま残っています。「小野幌の泣き別れ」はそんなニュータウンの歴史を私たちに教えてくれているように思いました。