『あつ!ベンチャー』の地元探検、何から始めようかといろいろ思案しましたが、やはりこの1枚の写真から始めることにしました。私自身初めてこの写真を見たとき、「えっ、そうなの?!」と、とても驚いたからです。
この写真、何だかわかりますか。荒野のようなところに橋脚が並んでいます。冷たい季節風が吹きつけてきそうで、寂寥感がありますよね。ヒントは真ん中にある赤い四つの点です この四つの点を拡大したのが下の写真です。そうなんです。われらが「JR新札幌駅」なんです。開業した翌年の1974年(昭和49)に、現在の北辰病院側から撮影したものです。今では北と南のターミナルビル(デュオ1・2)に挟まれ、元の駅舎の姿は見えなくなっています。ガード下にもたくさんの店舗が入り、すっかり様変わりしていますよね。私のように20年ぐらい前からの新札幌しか知らない者にとっては、想像もつかない光景です。でも、この「ポツンと一軒家」のような「新札幌駅」から、新札幌の街は本格的な発展が始まったんですね。
新札幌駅が開業したのは1973年(昭和48)9月9日。冬季オリンピックが開かれ、札幌市が政令指定都市になった翌年のことです。札幌オリンピックのテーマソング「虹と雪のバラード」には「町ができる 美しい町が」という歌詞があります。そんな雰囲気の中で「新札幌」は産声を上げたんですね。
さて、調べてみると、この駅は開業時の佇まいのほかにも、いろんな「えっ、そうなの?!」が詰まっていました。
まず、この駅が建った場所には、元々陸上自衛隊の弾薬庫があったということです。弾薬庫は太平洋戦争末期の1944年(昭和19)10月にできました。『写真で見る札幌の戦跡』(札幌郷土を掘る会 2010年12月)によると、駅の一帯は牧草地や湿地帯だったということで、そこに旧陸軍が合わせて9基の弾薬庫を作りました。この弾薬庫は戦後も進駐軍に、そして陸上自衛隊へと引き継がれました。札幌市がこの一帯を開発するため、自衛隊側に弾薬庫の移転を申し入れたのが1963年(昭和38)。1966年(昭和41)11月に、札幌市が札幌防衛施設局に委託して代わりの施設を作ったうえで、厚別弾薬庫と交換することで合意しました。新しい弾薬庫は、自衛隊の誘致運動を進めていた日高町に作られることになり、1969年(昭和44)3月までに移転しました。一帯の開発の前提となる弾薬庫の移転だけでも6年の歳月を要したんですね。この弾薬庫については、また別の機会に書いてみたいと思います。
二つ目の「えっ、そうなの?!」は、この駅が札幌市のたっての望みで作られた「請願駅」であること。札幌市はこの地域を開発するためにはどうしても駅が必要だと考え、自衛隊との協議と並行して、国鉄にも「お金は出しますから、新駅を作ってください」と働きかけました。駅の着工予定について伝える北海道新聞の記事(1972年3月30日)によると、「駅建設費三億九千六百万円を市が負担する」とあります。その後、この「請願」による駅の設置が増え、1984年(昭和59)には函館線の森林公園駅もこの請願によって作られました。最近では、ことし3月、当別町内の札沼線に開業した「ロイズタウン駅」や、お隣北広島市に作られる「北海道ボールパーク駅(仮称)」が話題になりましたよね。この二つの駅にも地元の並々ならぬ期待を感じますが、新札幌駅も、同じように地元自治体の熱い思いから生まれたんですね。
三つ目は、元々の千歳線は別なところを通っていたのに、線路のルートが変更になり、新しいルートの開業に合わせて駅が作られたことです。下の図を見てください。
元々の千歳線は今のルートより南側を通っていました。しかし、この旧路線は急カーブが多いうえに、急勾配もあり、幹線としての規格に達していませんでした。また、現在の札幌貨物ターミナル駅を貨物輸送の一大基地として整備しようという計画もありました。このため、国鉄では複線化の工事に合わせて路線を付け替えることにしたのです。総工費71億1700万円を投じ、8年の歳月をかけた大事業でした。これによって、複線化に加え、急カーブ、急勾配が解消され、さらに北広島・苗穂間は19.6㎞とそれまでより2.3㎞短縮されました。スピードアップと輸送力の増強が実現し、ドル箱路線としての基盤が確立されました。札幌市の新駅建設の請願は、ちょうど国鉄のこの路線付け替え計画に乗じた形で行われました。その反面、この路線の付け替えによって旧路線の駅はなくなり、沿線の地域は不便になりました。「あんな何にもないところに駅を作って、私たちの地域の駅を廃止するなんて」という怨嗟の声も少なくなかったのではと思います。
四つ目は、「高架駅」として開業したことです。当初、新しい路線は高く盛り土をし、その上に線路を敷く計画でした。新札幌駅から南郷通までのところは盛り土の上に線路がありますよね。すべてあのような方法で建設する計画だったんです。それが、計画の途中で高架橋方式にすることに変更されたのです。鉄道は地域の発展をけん引してきましたが、街が発展するにつれて、鉄道が街を東西に、南北に分断し、均衡ある発展や道路の交通を妨げることが大きな問題となっていました。新札幌駅の開設が決まったのは、ちょうど札幌市が国鉄や国に対して、札幌駅や付近の鉄道の高架化を繰り返し要請している頃でした。このため、これから作る駅は最初から高架にした方がいいということになり、市側が国鉄に強く働きかけ、急遽高架化されることになったのです。札幌駅が高架になったのは1988年。新札幌駅はそれより15年も前に、最初から高架駅として開業したわけです。後発としてのアドバンテージが生かされたと言えます。この高架化について、駅周辺の開発を担ってきた第三セクターの札幌副都心開発公社はその「10年小史」の中で、「副都心にふさわしい都市機能を整備していく上で、必要不可欠の条件であって、それを打開し得たことは高く評価されるべきであろう。」としています。
こうして見ると、新札幌駅は何もかもが好都合にお膳立てされて誕生した「持っている駅」なんだなあと思わずにはいられません。
さて、最後に、新札幌駅の開業が当時どんなふうに報じられたかです。図書館に行き、北海道新聞をめくってみました。下は開業前日の夕刊の記事です。
ポツンと建った新駅より、やはり「千歳線のパワーアップ」こそがニュースだったんですね。新札幌駅については「ひばりが丘、青葉団地などの中心に位置し、ベッドタウンの中核駅となる」と、4行で簡単に触れられているだけです。私が予想していたよりは、静かなデビューだったのかもしれません。
JR北海道によると、新型コロナ前の令和元年度の新札幌駅の一日の利用客は1万4421人。札幌、新千歳空港、手稲に次いで道内でも4番目のビッグな駅に成長しました。まったくもって「えっ、そうなの?!」っていう感じです。
次回は新札幌の駅名をめぐる物語を紐解いてみようと思います。
【参考文献】
『北海道鉄道百年史 中巻』 国鉄北海道総局 昭和55年10月
『新札幌市史 第五巻(下)』 札幌市教育委員会 平成17年3月
『あつべつ区再考』 札幌市厚別区 平成6年4月
『札幌副都心開発公社10年小史』 札幌副都心開発公社 昭和59年5月